けんちくか・この不思議な存在(その一)
現実世界の我が家は,竣工目前である.これまで一年以上にわたって施主として建築家と関わりながら家作りを進めてきた.その経験のなかで,建築家という存在とはどういったものであるのか時折考えてきた.
「建築家って,いったいなんだろう……?」
ある作家の欺瞞
10年ほど前だろうか,河村記念美術館にゲルハルト・リヒター展を見に行ったことがあった.展示そのものは面白かったが,最後にリヒター本人が自分の新作について語っている映像を見て僕は頭を抱えてしまった.というのも,そこで彼はこう語っていたのだ.
「自分の期待通りの作品に仕上がって満足しています」
(c) NEW YORK OBSERVER
商人のような目で自分の作品に言及する彼の言葉を聞いて,僕はあれっ?と思った.そしてこう考えた.「そもそもはたしてそんなことがありうるのだろうか?」
「期待通りの創作」は存在するか
まず,「期待通りの作品」という表現が危険な気がする.というのも,作家の思い通りの新作というものがそもそも芸術の世界で存在し得るのだろうか.譲ってそうだとしても,それは創作といえるのだろうか?新しい何かが生まれた時,それは必然的に「期待以上」であったり「予想外」であったりすはずだ.そう考えると,「期待通りの新作」という表現は語義矛盾をはらんでいるのではないか.
作家は期待通りの作品に「満足」しうるのか
そしてそのあともなんだかマズい.もし彼が0を1にしようと試みる存在としての作家であるのならば「期待通りの作品」には「満足」などしないものではないだろうか?
クリエイションとプロダクション
「良い作品ができて満足」ならわかる.「予想外の作品ができて嬉しい」もわかる.でも,芸術の世界で作品が「期待通り」に出来上がって「満足」するなんてことはやはりどこか納得がいかない.そんなのなにも新しくないよね?なにも生み出してないよね?
そういったわけで,まるでプロダクトマネージャが工業製品のクオリティコントロールについて語るかのような言葉に,僕はどこか腑に落ちない気持ちになったのだった.
アートはもはや現代においてはビジネスと変性したのだろうか?そんななかで自分はなにか夢見がちな傍観者にすぎないのであろうか?いや,そもそも工業製品とアートを厳密に区別することはできないのか?そもそもアートとは?などと,答えの無い問いに思いをめぐらせながら帰路に着いた.
インターネット時代の作家性
さてすこし話が変わるが,とある別の作家がTwitterでこんなことを書いていた.
「このパーツはこんな感じで、ここはこう」みたいにsumallyやpinterest、tumblrでクリップしたもの出されることが多くなってきてちょっと難しい局面にきてる。こっちは試行錯誤して新しいもの作りたいから。否定はしないけど、危うい。
「わかる!」
思わず相槌をうった.自分はどちらかというともの作りを頼む側・施主側の人間なのだが,この話はすんなり腑に落ちた.「わかりやすいステキ」って危ないんだよね.そして「簡単に手に入る欲望」ってのも危ういんだ.
イージーアクセスの落とし穴
中途半端な情報集積は,時として創作を邪魔することがある.まあインターネットに限った話ではないが,優れた集合知というものにはときに目に見えない魔物が潜んでいるものなのだ.彼らは「たやすく手が届くステキ」をたくさん用意して,情報のやぶに隠れながら僕たちが餌に食いつくのを手をこまねいて待っているのだ.
ネット世代の幸・不幸ってなんだろう
インターネット世代の幸せというものがあるとしたらそれは,検索という行為によってコストをかけず簡単に「正解のようなもの」をのぞき見れることだ.
けれども,それは同時に潜在的な不幸にもなる.お手軽な検索で「既存のステキ」に行き当たって満足してしまうと,「何かを生み出す」という真のゴールまでたどりつかずに終わってしまうリスクがあるばかりでなく,本当は自分の求めていた答えにたどり着いていないことにそもそも気づかない危険すらあるのではないか.
インターネットを使えば驚くほどの情報量にアクセスできる.けれども,世の中はさらに,はるかに広い.インターネットに載っていないことも山のようにある.そしてしばしば,ネットで調べられないような場所に世界の真理とでもいうべきものがかくれていたりするのだ.
既存のステキの組み合わせを超えて
確かに画像SNSやまとめサイトで,魅力的なものは簡単に見つかる.けれどもそれって結局新しいものじゃないよね,もうあるものだよね.本当に良いものを作りたいなら,そこそこで諦めてはいけない場合もあるのだ.少なくとも自分の足と使って尋ねてゆき,手を使って実際に触ってみて,耳を使って作家の話を聞いてみたあとで,一度は自分自身の頭を使って考えてみるのがよい.
たとえば建築家に家を頼むようなタイプの人であれば,ほんとうはみんな自分でも分かっているはずだ.簡単に見つかるもので簡単に満足してはいけないこともあるのだと.少なくとも分かりやすいステキに潜む棘に自覚的でいるべきだし,必要なら時には「素敵の森」の中を慎重になぎ払って進まなければならないいこともあるのだと.
(つづく)