トム・ジョビンと地鎮祭――三十代の苦しさについて
■ブラジル一の作曲家と建築
ブラジルで一番有名な作曲家といえばジョビンだ.名前を全て書くとAntônio Carlos Brasileiro de Almeida Jobimとなる.とりあえず,名前がとても長い.
長いのは名前だけではない.彼の作曲リストも同じだ.というわけで,信じられないほどの名曲を信じられないほど数多く生み出した作曲家なのだが,音楽の仕事を始める以前は建築関係の仕事をして生計を立てていたことは意外と知られていない.
結局,音楽の夢を諦められずにいるうちに見出されたのだが,なんと最初に手がけた仕事はあのヴィシニウスの舞台「Orfeu da Conceicao」なのであった.
このテーマとなる曲はのちに映画化された「黒いオルフェ(Orfeu Negro)」の主題曲である「カーニバルの朝(Manha de Carnaval)」として今でも有名だ.みなさんもきっと一度は耳にしたことがあると思う.
Manha de Carnaval ʚϊɞ Toots Thielemans - YouTube
■世界最高のボサノバ録音
というわけで,ジョビンは僕のお気に入りの音楽家の一人なのだった.
そんな彼の作品の中に「三月の水」という曲がある.いろいろなバージョンがあるが,なかでもエリス・レジーナと共に吹き込んだバージョンはまさに珠玉だ.この曲をもってして「世界中で一番優れている」という人がいても,そう簡単には反論する気にはなれないほどだ.
菊池成孔氏も曰く,「ネイティブ以外の作家が作った歌詞の中で10本の指に入るとレナード・フェザーは言うが,間違いだ.最も十曲の中に入るのではなく,これが最も優れた一曲だ」ということだ*1.
早速,三月の水の歌詞(一部)を見てみよう.とはいっても,原点のポルトガル語にあたるのは難しいので,僕がインターネット翻訳を駆使していい加減に訳出したものを記す.
É pau, é pedra, é o fim do caminho こえだ,石ころ,道が終わる
É um resto de toco, é um pouco sozinho 切り株にひとやすみ,すこしの孤独
É um caco de vidro, é a vida, é o sol ガラスのかけら,いのち,太陽
É a noite, é a morte, é um laço, é o anzol 夜,死,投げ縄,釣り針
É peroba do campo, é o nó da madeira ペローバドカンポ,木の節目
Caingá, candeia, é o Matita Pereira カインガ,カンデイア,マチタペレイラ
É madeira de vento, tombo da ribanceira 風の樹,川岸のがけ崩れ
É o mistério profundo, é o queira ou não queira 底知れぬ神秘,望むと望まざると
É o vento ventando, é o fim da ladeira 吹く風,坂も終わり
É a viga, é o vão, festa da cumeeira 梁,すきま,棟上式
É a chuva chovendo, é conversa ribeira 降っている雨,小川の会話
Das águas de março, é o fim da canseira 三月の水,疲れも忘れ
É o pé, é o chão, é a marcha estradeira, 足,地面,ぶらぶら散歩
Passarinho na mão, pedra de atiradeira 手のひらの小鳥,つぶて
É uma ave no céu, é uma ave no chão 空には鳥,地面にも鳥
É um regato, é uma fonte, é um pedaço de pão 小川,泉,ひときれのパン
É o fundo do poço, é o fim do caminho 井戸の底,道が終わる
No rosto o desgosto, é um pouco sozinho 不機嫌な顔,すこしの孤独
É um estrepe, é um prego, é uma ponta とげ,針,先端
É um ponto, é um pingo pingando 点,したたる雫
É uma conta, é um conto 計算,物語
É um peixe, é um gesto, é uma prata brilhando 魚,しぐさ,輝くシルバー
É a luz da manha, é o tijolo chegando 朝の光,届いたレンガ
É a lenha, é o dia, é o fim da picada 薪,昼間,道が終わる
É a garrafa de cana, o estilhaço na estrada コーラの瓶,路上の破片
É o projeto da casa, é o corpo na cama 家の設計図,寝床の体
É o carro enguiçado, é a lama, é a lama 壊れた車,泥,そしてまた泥
É um passo, é uma ponte, é um sapo, é uma rã 足跡,橋,ヒキガエルとカエル
É um resto de mato, na luz da manha 茂みでひと休み,朝の光の中で
São as águas de março fechando o verao 冬を閉じるのは三月の水
É a promessa de vida no teu coraçao あなたが確かに生きているということ
■三月の水とジョビンの憂鬱,そして家づくり
当時,ジョビンは国民的スターとなって生活が一変し,妻と別れ,長いうつ状態にあった.そんな彼は詩の中で,うつむきながら歩いている.そして,ひと休みして顔を上げ視界に入るものに触れながら,「生きること」を取り戻していきつつある.そして読めばわかる通り,詩の中でジョビンは明らかに家を建てている.森羅万象に触れながら,自分の家を建てていく中で,自分の生き様を見つめなおしているのだ.
最後の一節は,直訳すれば「夏を終わりにする三月の雨,あなたの心に生きる希望」となるが,一番大事なところなので背景を考慮して意訳した*2.
ジョビンがこの歌の中で見た世界は,結局のところ彼自身にも「たしかに生きているということ」を教えたのだった.
■我が家の地鎮祭にて
先日,といってももう何ヶ月も前だが,我が家の地鎮祭を行った際に,施主の挨拶に代えてこの曲を演奏した.妻は訳詩を朗読し,僕がギターで伴奏をつけた形だ.
一所懸命に書いた譜面と訳詩.この曲は簡単なようで非常に複雑なコード進行と構成を持っている.
演奏の最中に,風が吹いて鳥が鳴き,夕立が降って桜が散り,遠くで雷鳴が響いた.長男はカホンを手に真剣な顔で演奏に参加し,次男はつぶれた饅頭のようにイスで寝ていた.
ジョビンを引き合いにだすわけではないけれど,僕たち一家も三十代なりの苦労というものをそれなりに味わってきた.仕事や子育て,ひいては自分の人生そのものなど,悩みは尽きない.そんな中で,ときどき本当にいやになってしまいながらもなんとか食いしばって生きてきた.挨拶の代わりにこの曲を選んだのはそんな思いがあったからだ.
■三十代の苦しさと家を建てるということ
もちろん人生には,楽しいときもあれば苦しいときもある.ただ,三十路の苦しさというのはいまのところ格別だ.
周囲への責任と自分自身の可能性の限界の両方を同時に突きつけられるのは並大抵のことではない――ということがこの歳になって,初めてわかったことだった.理由などなくてもほかの誰よりも輝いていたジュベナイルははるか昔に終わりを告げた.いまや,ほかの誰と変わりのないワンノブゼムになりつつある自分を認めていかなくてはいけないのだ.
ブログの冒頭で「いつのまにかこんなことになってしまった」と書いたが,いまこうしてこの記事を書いてみると,むしろそれは必然だったのではないかと思えてくる.苦しさの中で、どこかわらをつかむような気持ちで家を建て始めたのかもしれない.
失われつつあるみずからの生を取り戻したい,あるいは新しい形で創めたい――たかが家を建てるというのに大げさに考えすぎるのは禁物だけれど,正直な実感として救われたいという気持ちが少しあったのは事実だ.いや,自分で自分の人生を救いたい.家を建てながら,ときどき本当にそんな気持ちになっていた.ジョビンの詩を読みながら三月の水を聞きながら家のことを考えると自然とそういった気持ちになってくるのは不思議なものだ.
今日,竣工まで二ヶ月を切った現場に足を運んでみた.建設中の雑然さを抱えた不完全な我が家に一瞬のそよ風が入ったそのとき,すこしだけジョビンの声が聞こえたような気がした.
「あなたがたしかに生きているということ」
Waters of March - Águas de Março - Stereo - Elis ...
*1:「菊池成孔の粋な夜電波」
*2:ブラジルは南半球にある