いかにして広いリビングのことを諦めたのか
とにかく,広いリビングのある家に住んでみたかった.
とにかく,40畳くらいの馬鹿でかい空間を家の中心に置いて暮らしてみたかった.
広くて天井の高いリビングにグランドピアノを置いて,薪ストーブを焚いて,アイランドキッチンを囲みながらみんなで料理を作って,おおきな無垢のテーブルで食事をとる.そんなわかりやすいかたちの夢は,僕にとってもそれなりの訴求力を持っていた.
とにかく,広いリビングで生活のほとんどを成立させてみたかった.
食事・団欒・勉強・娯楽・来客の歓待・ペットの飼育など,異なる生活の局面を全てリビングに集約する.広い一間のそれぞれのコーナーでそれぞれ別のことをしている家族がなんとなく集合しているという形にしたかった.プライバシーがないようであるような,一家団欒しているようでそれぞれ独立しているような家族生活の舞台が欲しかった.
そのためには,広いリビングが必要だった.それは,家族のいろいろな生活がひとつの空間に集まる「統合的な役割」と,家族が一箇所に集まっていながらもそれぞれが別のことをしているという状態を許すような「多面的な役割」を両立させる空間だ.「集約」と「散在」という相反する生活のフェイズが融和する点としてのリビングを作りたかった*1のだ.
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けれど,結論を言えばこの案は実現しなかった.
いいところまでいったのだが,最終直前にボツになった.打ち合わせを進める中で,「土地の広さがわずかに足りないという雰囲気」がたちこめた.あと四畳半,いや三畳でもいいからもうひと部屋あれば十分だったのだが,そこがどうにもならない.
もともとが広々としたプランのはずだったのに,あと一歩の不足のせいでどこか全体に窮屈に感じられるという逆転が起きているように感じられた.大げさに言えば,こつこつと中央部分から一所懸命に裏返していったオセロのゲームが,最後のひと隅の陣取り合戦でひっくり返されてしまったような気分だった.そんなわけで,僕はこのプランがすごく好きだったけれど,諦めた.
その案が,これだ.
あえて2階建てとすることで天井を高くとったびのびとしたリビングが特徴だ.近接した都市部の住宅地であるから,テラスもあえて設けていない.敷地一杯に建てながらも,主に天井から採光とすることで空間の時間的移ろいが感じられる設計になっている.ふたつの螺旋階段が無駄のある面白さを実装する一方で,階段の踏み板を透過性のある素材にすることで本来暗くなりがちな一階部分への採光にも配慮した設計になった.
代償として,さっきも書いたように,リビング以外の「遊び」が少ない.ここでいう「遊び」というのは,役に立たない無駄な空間という意味だ.最低限の収納と,最低限の寝室しかない.まあそれは良いとしても,たとえば母が家事育児を手伝いに来たときに寝る場所がない.大量の本や音楽の機材,CDやレコードはちゃんと収納できるだろうか.いつも自家用車の横を通って自転車を出し入れするのは気が滅入らないだろうか.
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ちなみに,もともとは高山にある吉島家の住宅*2を参考に,現代都市向けに縮小・省略し,大幅にリヴァイズした案である.
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さて,この家のもつ「リビング以外のゆとりの無さ」は,ある意味「生活への束縛」として跳ね返ってくるわけだが,逆に言えばそれは「規律的な生活を目指せるよさ」とも言えるかもしれなかった.なんというか,それなりの「自制心のある生活」が求められるような家だっただろうと思うのだ.
他に案がなければたぶんこのプランで「住めた」だろう.むしろ,積極的に大胆に要素を削った「カッコいい」プランだった.
いずれにしても,この家は採用しなかった.やはり,わずかだけれど決定的にゆとりが足りない.そして,共働きで二人の子供を育てる我が家の場合,この家にふさわしいようには住み切れないのではないか,というのがホンネだった.
でも実は,この案を落とした理由は,それだけではなかった.「もっと良い案」が出てきたからだった.